はじめに
研究開発は、社会に役立つ製品を提供し、企業の事業継続や新規事業への参入を支える新たな価値創造のための要です。市場に投入された製品は、市場が大きくなるほど競合他社の製品と競り合うことになり、優位性を失う可能性があります。こうした状況下で事業を継続するには、市場(顧客のニーズ)の変化や新技術(シーズ)を反映して製品を改善し、競争力を維持・向上させることが不可欠です。また、新規事業への参入には、事業領域や目標の設定、市場性や事業性の検討、さらに自社の技術や開発環境の分析など、多くのプロセスが関わります。研究開発部門が他部門と協力し、これらのプロセスを経ることで、研究開発を成功させること(すなわち社会や人々に新たな価値に繋がる成果を達成すること)が可能になります。
「マインドセット」という言葉が注目されています。将来の見通しが難しい今日の複雑な時代、企業が持続的に成長していくためには、経営層やリーダーだけでなく、従業員一人ひとりが変化や課題に柔軟に対応できる意識や考え方を持つことが必要です。過去の成功事例が常に通用するとは限らない中でも、研究開発を成功に導く無意識の思考や行動パターンは存在すると考えられます。企業のマインドセットは、社風や企業理念にも反映されています。本記事では、いくつかの成功事例も参考にしながら、研究開発の成功に必要な個人のマインドセットと姿勢について考察します。
マインドセットと姿勢
気づき
研究開発はまず、課題と目標を設定することから始まります。この課題や目標は、顧客からの要求だけでなく、競合製品や社会の変化、消費者のさりげない行動の変化などから生まれることが多く、そのためには「気づき」が重要です。P.F.ドラッカーは著書『イノベーションと企業家精神』1)で、「日常業務における予期せぬ成功や予期せぬ失敗のような不測のものについての平凡で目立たない分析がもたらすイノベーションのほうが、科学上の新知識よりも失敗のリスクや不確実性ははるかに小さい。イノベーションとは意識的かつ組織的に変化を探すことである」と述べています。成功する研究開発には、まず「気づき」が欠かせません。
1杯のラーメンを食べるために多くの人が長い行列を作っているのを見て、1958年に世界初のインスタントラーメンが誕生しました。その後、アメリカでインスタントラーメンを小さく割って紙コップに入れ、お湯を注いでフォークで食べる様子を目にし、食習慣の違いに気づいたことがきっかけで、1971年に世界初のカップ麺が誕生したと言われています2)。研究開発を成功させるためには、現場で実際に見て、聞いて、触れ、その変化を感じ取る「気づき」が重要です。
「気づき」は、ニーズを得るためだけでなく、新たな技術を見つけ出し、応用するためにも使われます。1964年の東京オリンピック開催時に開業したホテルニューオータニには、当時東洋一の規模を誇る回転展望レストランが設置されました。このレストランでは、ワイングラスを倒さず滑らかに回転させるために、戦艦大和の主砲塔の技術が活用されていました。このように、異なる分野の材料や技術を組み合わせることで、まったく新しいイノベーションが生まれることがあります。他分野の技術を積極的に取り入れること、すなわち「気づき」が、イノベーションには重要なのです。
いまではあたりまえのカップ麺も、積極的かつ意識的な「気づき」がなければ生まれていなかったかもしれません。
やってみる
「100の空論より一つの実行」という言葉が大好きです。研究開発はもともとリスクを伴うもので、失敗を恐れて議論を重ねるよりも、まずは実行し、その結果を理想の姿と比較することが大切だと考えています。これにより、成功に向けて具体的に問題点を洗い出し、次の行動に繋げられるからです。ここでいう「やってみる」とは、「まずやってみる」で「とりあえずやってみる」とは違います。しっかりと考え、仮説も含めて目的を明確にした上で行動に移す姿勢が大切です。
エジソンは日本のお土産としての扇子を見つけ、その扇子に使われていた竹に「気づき」ました。そして、その竹を使う(「やってみる」)ことで電球の寿命を長くすることに成功し、世界で初めて実用的な「白熱電球」を作り出しました3)。また、総合酒類食品企業として有名なサントリーは「やってみなはれ」の精神を創業者から受け継ぎ、実践しています4)。この企業は、新しい価値を創造するために挑戦を奨励しており、「やってみる」は企業のマインドセットの一例としても挙げることができます。
均質で細かい加工に適した竹という素材に「気づき」、「やってみる」ことで、エジソンは白熱電球の実用化への手がかりを掴みました。
共感
成功する研究開発において、共感も大切です。どのような事業も一人で成し遂げることはできず、様々な専門性や個性を持つ人々がチームとして互いの力を十分に発揮してこそ実現可能です。その中で「共感」は、他者の感情を理解し共有することで、良好な対人コミュニケーションの基盤となります。共感によって相手の気持ちに寄り添うことができると、信頼関係が築かれやすくなり、本音も引き出しやすくなるのです。
例えば、研究開発プロジェクトのマネージャーには、経験やスキル、考え方の異なった多様性を持つ人財が共感できる目標を設定することが重要です。チーム内の共感を得ることで難題の解決も可能となり、さらに、その目標が顧客にも共感されるものであれば、研究成果が受け入れられやすくなります。20世紀の偉大な発明とされる「ハーバー–ボッシュ法によるアンモニア合成」も、多くの共感が集まった結果達成されました5)。具体的には次のような流れです。
- F.ハーバーが考案したアンモニア生成プロセスに共感し、工業化を決断したBASF社の社長H.V.ブルンク。彼の判断がなければ実現は困難でした。
- ブルンクの化学産業へのビジョンに共感し、プロジェクトリーダーを務めたC.ボッシュ。
- ボッシュに共感し、触媒開発を任されたA.ミタッシュによる鉄触媒の発見。
さらに、純粋な窒素の取得や水素製造技術、多孔軟鉄内張りの反応器の開発など、このプロジェクトに「共感」した多くの研究者と技術者たちの試行錯誤の積み重ねによって、この偉大な科学的達成が実現しました。
原点回帰
研究開発では必ずしも進展が直線的に進むものではなく、むしろ失敗や行き詰まりの方が多いものです。困ったとき、行き詰った時は原点回帰が有効です。当初立てた仮説が間違ってたり、予期せぬ結果が出た場合は、柔軟に頭を切り替え新しいアプローチが必要になります。そんな時こそ原理・原則、基本に立ち戻ること、すなわち原点回帰が必要となります。
世界初のカメラ付き携帯電話のアイデアは、「撮って送る」ことの価値に「気づいた」瞬間から生まれました。この製品は開発に「共感」したJ-PHONEとシャープの共同開発によって実現され、最終段階では通話中の切断防止という課題に直面しました。ノイズの解消が必要とされましたが、担当研究者の「原点回帰」から生まれたアイデアによってこの問題が見事に解決され、歴史に残る大ヒット商品(未来技術遺産第00168号)として市場に登場しました6)。当時、女子高校生の間で「携帯電話、音楽プレーヤー、使い捨てカメラ」が“三種の神器”と呼ばれていましたが、現在ではこれらが一つに集約されたスマートフォンが当たり前の存在となっています。
謙虚さ
大切な姿勢としては「謙虚さ」を挙げることができます。新しい仕事に挑戦する時には、今までの知識や経験に固執せず、常に新しい情報や理解を求める姿勢が大切で、それには「謙虚さ」が欠かせません。謙虚な姿勢を持つことで、困った時には素直に助けを求められ、周囲も支援しやすくなります。そして、他人の助けを得ることで自信を取り戻し、次の課題にも意欲的に取り組むことができます。特に専門外の分野については、一人で抱え込まずに相談する姿勢も重要です。松尾らは7)、日本企業においてリーダーの謙虚さが心理的安全性を高め、職場のプレゼンティーズム(体調が優れない状態で働き、生産性が低下すること)が改善されることを報告しています。リーダーも謙虚さを意識することで研究開発効率を改善することができます。
まとめ
筆者の経験と幾つかの事例から、成功するために研究開発に必要なマインドセットと姿勢として、5つのポイント、「気づき」「共感」「やってみる」「原点回帰」「謙虚さ」を紹介しました。研究開発部門に求められる価値が多様化し、「理想の姿」が曖昧になりつつある現代では、研究開発の範囲も非常に広がり、「何を研究・開発するべきか」を見極めるのが難しくなっています。確実に事業化へと導ける方法はないものの、これら5つのマインドセットと姿勢を持ち続けることで、研究開発のプロセス自体が豊かになり、最終的には社会に貢献する価値ある成果を生み出せるでしょう。
5つのマインドセットと姿勢を持ち続け、研究開発の成功を実現しましょう!
参考文献
1)P.F.ドラッカー「イノベーションと企業家精神」上田惇生訳、ダイヤモンド社
2)安藤百福クロニクル | 日清食品グループ
3)はちまんさんとエジソン
4)LEARN ABOUT サントリー「やってみなはれ」の歴史|新卒採用情報
5)T.ヘイガー「大気を変える錬金術」渡会圭子訳、(株)みすず書房
6)NHK出版新書723「新プロジェクトX挑戦者たち1」、NHK出版
7)A. Matsuo, M. Tsujita, K. Kita, S. Ayaya, S. Kumagaya, The Mediating Role of Psychological Safety on Humble Leadership and Presenteeism in Japanese Organizations. Work, vol. 79, 437-447(2024),DOI:10.3233/WOR-230197