はじめに
生成AIの登場により、企業のデジタルトランスフォーメーション(DX)は新たな局面を迎えています。多くの企業が生成AIの活用に取り組む中、導入の壁となるのは技術的な課題だけでなく、組織文化や推進体制の問題です。
本稿では、創業から100年以上の歴史を持つ化学メーカー・日本曹達が、研究開発部門から始まり全社へと生成AIの活用を広げた事例を紹介します。研究開発の現場から生まれた取り組みが、どのように全社的な活用へと発展したのか、その具体的なプロセスと成果に焦点を当てます。特に「環境」と「道具」のバランスの取れた整備や、ボトムアップとトップダウンを組み合わせた「二刀流アプローチ」など、他社でも応用可能な実践的知見を提供します。
日本曹達における生成AI活用の背景
日本曹達は祖業のカセイソーダ、塩素誘導品などからファインケミカル分野に展開し、現在はアグリビジネスや医薬品添加剤機能性化学品事業などの主要事業分野で高付加価値の化学製品を製造・販売している化学メーカーです。「アグリカルチャー」、「ヘルスケア」、「環境」、「ICT」の4つの戦略分野で多様な化学製品・サービスを提供しています。
素材・化学メーカーとして、弊社は研究開発に多くのリソースを投入しており、研究者の創造性と効率性の両立が常に課題となっていました。膨大な文献調査や実験データの分析、特許情報の処理など、高度な専門知識を要する作業に研究者の貴重な時間が費やされていました。
この課題を打破するため、弊社は早くからAIの可能性に着目しました。研究開発プロセスをより創造性の高いものに変革する技術として、ディープラーニングなどのAI活用を模索。マテリアルズインフォマティクスを活用した新素材開発や、画像認識技術による品質管理の効率化などの取り組みを進めてきました。
これらの取り組みを進める中で、2022年頃から急速に発展した生成AIに大きな可能性を見出しました。従来のAI技術と比較して、生成AIは研究者の創造的な思考をより直接的に支援できると考えたからです。業務をより創造的なものに変えていくためには、単に技術を導入するだけでなく、組織全体の受け入れ体制(「環境」)と適切なツール(「道具」)の両方を整備することが重要だと認識しました。この「環境」と「道具」のバランスの取れた整備が、弊社の生成AI活用の基本方針となりました。特に素材・化学メーカーである弊社では、研究者の専門知識と生成AIの組み合わせにより、これまで見過ごされていた可能性を発見できると期待を寄せています。
研究開発部門から始まったAI活用の歩み
日本曹達の生成AI活用は、研究開発部門の取り組みから始まり、段階的に全社へと広がっていきました。研究現場での成功体験が、他部門への展開の原動力となっています。以下では、その時系列に沿った発展過程を紹介します。
AI活用の基盤構築期(2019年~2022年)

図1. 日本曹達における生成AI活用の詳細時系列(第1期)
2019年、研究開発部門の責任者が中心となって「AIワーキンググループ」(AIWG)を立ち上げました。AIWGでは主に製造、材料部門でAIの可能性を検討し、ディープラーニング(画像認識)やマテリアルズインフォマティクスの実証実験を行いました。
AIWGの活動として、予測モデルに基づく実験計画手法「ベイズ最適化」を誰でも簡単に使えるWebアプリケーションを開発しました。この取り組みは特許も取得しています。
組織体制の進化と生成AI導入準備期(2023年)
2023年初頭、AIWGを発展させたDX組織「DSI(データサイエンスイニシアチブ)」を発足させました。DSIは研究開発部門の若手メンバーから構成される組織で、生成AIの可能性に着目しました。業務効率化を図るだけでなく、研究者の思考プロセスを支援し、新たな視点や発想を促進、よりクリエイティブな研究集団への進化を目指しています。
2023年11月には、社長を含む経営層に協力いただく形で生成AIのデモンストレーションを実施しました。これにより、経営層の理解と支援を得ることができました。
クラウド型生成AIサービス採用と検証期(2024年前半)
複数の選択肢を検討した結果、2024年1月に日本曹達が採用したのはセキュアなパブリッククラウド環境で提供される生成AIプラットフォームでした。IT部門と協力してセキュリティ設定を実施し、DSIによる検証作業を開始しました。
クラウドサービスのサーバー、ストレージ、データベースを活用して基盤を構築し、生成AIサービスプラットフォーム上でLLMにはAnthropicの「Claude」を採用しました。さらに生成AIの可視化システムや、Claudeを搭載した生成AIWebアプリケーションを使って、運用中です。
生成AIはコストが高いとの懸念がありましたが、従量課金サービスを利用することで、利用しやすい環境を整えました。
研究開発部門への展開期(2024年3月~4月)

図2. DX Challengers Festivalのレポート(社内報)挑戦をイメージした画像を生成
2024年3月、日本曹達は初めてのDX発表会「DX Challengers Festival」を開催しました。全部門を対象とし、冒頭に経営層からの特別講演が行われました。300名が参加し、新形式の自由コメント制により200件以上のコメントが寄せられました。この発表会でDSIによる生成AIデモンストレーションが実施され、ID付与計画が発表されました。
3月下旬には全研究員(全社では約400名)にIDを付与し、生成AIの利用を開始しました。4月にはDSI統括を経営企画部、IT部門、研究部門の3部署の兼務とし、DSIの部門間連携がスムーズになるような体制を構築しました。
また、4月には生成AIガイドラインを策定しました。経営層、IT部門、経営企画部、研究部門で議論を重ね、高校を卒業して初めて就職した人でもわかるよう、全員で進められるような環境となるようガイドラインを整備しました。同月、経営層に全社展開を提案しました。
研究開発部門での生成AI活用は大きな成果を上げ、研究者の業務効率化だけでなく創造的な思考支援にも効果を発揮しました。この成功体験から「研究部門だけでなく全社で活用すれば、より大きな組織変革につながるのではないか」という気づきが生まれ、全社展開への機運が高まりました。特に、若手研究者が中心となったDSIの活動が、部門の壁を超えた横断的な取り組みへと発展する原動力となりました。
全社展開を支えた「環境」と「道具」の整備
全社展開準備と開始(2024年6月~7月)

図3. 日本曹達における生成AI活用の「環境」と「道具」の整備
2024年6月、生成AIトライアルの進め方を確定しました。その特徴は「ガイドライン必読、上司許可不要、手上げ制」という点です。この方針には、生成AI導入における重要な戦略が含まれています。
ノーバリア戦略:心理的障壁の排除
日本曹達では、生成AIの全社展開において新技術導入に対する慎重な声や変化への自然な懸念に対して、前向きなアプローチで取り組みました。新しい技術の導入では、現場の若手社員が積極的に活用したいと思っても、組織全体での理解が進まなければ普及が難しくなります。
そこで弊社では、経営層を先に巻き込み、ボトムアップとトップダウンを組み合わせた二刀流戦略を実施しました。「上司許可不要」という大胆な方針を採用し、全社員が新技術を理解し活用できるよう徹底的に環境を整備しました。これにより、現場の社員が自律的に新技術を活用できる環境が整い、全社での学びと行動が促進されました。
モーニングビュー戦略:最大の視認性を確保
もう一つの重要な施策が「モーニングビュー戦略」です。社内イントラネットの一番目立つ場所(ログイン後に最初に表示される画面)にガイドラインと利用申請フォームを設置しました。
朝、社員が出社してパソコンを立ち上げた時に最初に目に入る場所に配置することで、会社がこの取り組みを重視しているというメッセージを無言で伝えることができました。この高い視認性は、単なるアクセシビリティの向上だけでなく、経営層の本気度を示す効果もありました。
さらに、申請フォームもクリック一つで完了する簡素な設計とし、「手上げ制」で希望者が自発的に参加できる仕組みとしました。これにより、興味を持った社員が即座に行動に移せる環境を整えたのです。
7月からは全社生成AI展開を開始しました。経営層の支援の下、全部門への展開を進め、現在、全社員の半数以上にあたる約850人が生成AIを利用しています。この急速な普及は、上記の「ノーバリア戦略」と「モーニングビュー戦略」が大きく貢献したと考えられています。
ボトムアップとトップダウンの二刀流アプローチ
日本曹達の生成AI展開の最大の特徴は、若手主体のボトムアップ活動と経営層主導のトップダウン支援を組み合わせた「二刀流アプローチ」にあります。
ボトムアップの推進力:DSIの役割
DSIは研究開発部門の若手メンバーから構成される組織で、生成AIの可能性にいち早く着目しました。「若手はスマホを子どもの頃から触っており、デジタル技術の応用力は非常に高い」という信頼のもと、若手の自主性を最大限尊重する体制を構築していただけています。
DSIは楽しく、世界を変えるをVisionとし、AIの民主化を軸に多くの活動を積極的に推進する立場を取りました。
DSIの主な活動には以下のようなものがあります:
- 先端AI技術の調査・共有・実装
- 生成AIプラットフォームの運営
- 「DX Challengers Festival」の企画・運営
若手メンバーは既存の枠組みにとらわれない発想で、DXを推進することを期待され、日々行動しています。
トップダウンの支援:経営層の役割
一方で、経営層は、以下のような形で強力なサポートを提供しました:
- 生成AI導入の経営判断と予算確保
- 「DX Challengers Festival」での特別講演
- 全社展開の承認と推進
特筆すべきは、DSI統括を経営企画部、IT部門、研究部門の3部署兼務としたことです。これにより、部門間の連携がスムーズになり、全社的な展開が加速しました。通常であれば部門間の調整に時間がかかるところを、兼務体制によって意思決定のスピードが格段に向上したと考えています。
また、DSIと経営層との距離が近く、直接対話できる環境も大きな強みでした。アイデアを思いついたら、すぐに経営層に相談できる。そして良いと判断されれば即座に実行に移せる。この意思決定の速さが、推進力になったと感じています。
具体的な活用事例と定量的な成果
活用拡大と新技術検討期(2024年8月~10月)
2024年8月には、生成AI RAG(Retrieval-Augmented Generation)についての議論を実施しました。経営層、経営企画部、IT部門で活用例を検討し、より高度な活用に向けた準備を進めています。10月には全社研究発表にて、全社に対して生成AIのデモを実施し、さらなる普及を図りました。
部門別の活用事例

図4. 日本曹達における生成AI活用事例
上記の図に示すように、各部門で生成AIの特性を活かした多様な活用が進んでいます。研究開発部門では専門的な文書作成や特許情報の分析に、製造部門ではデータ分析や文書自動化に、バックオフィス部門では定型業務の効率化や創造的な企画立案に生成AIが活用されています。
以下、各部門の活用事例について詳しく見ていきます。
- 研究開発部門での活用
研究開発部門では、実験データの要約や考察の補助、英語論文の校正といった研究報告書作成の支援に加え、公開特許情報の分析や競合他社の特許動向分析など、特許戦略の強化にも生成AIが活用されています。さらに、自社技術を活かした新素材のアイディエーションや市場ニーズと自社技術のマッチングによる新規事業アイデアの提案、研究者の創造的思考を刺激する新たな研究テーマの創出にも生成AIが積極的に活用されており、イノベーションの促進に貢献しています。
- 製造部門での活用
製造部門では、生産データの分析と改善提案、作業手順書の自動生成・更新による製造プロセスの最適化や、品質データの分析と傾向把握、検査報告書の作成効率化による品質管理の強化に生成AIが貢献しています。
- バックオフィス部門での活用
バックオフィス部門では、メール文章の作成・校正や会議の議事録作成といった業務文書作成の支援、社内文書の要約と分析による情報活用の促進、定型業務の自動化による業務効率の大幅な向上など、主に業務効率化の面で生成AIが活用されています。
専門知識とAIの創造的相互作用
日本曹達は、長年培った化学技術と研究者の専門知識を基盤としつつ、生成AI技術を研究者の思考補助として活用し、新規ビジネスや高分子材料のアイデア創出に取り組んでいます。
素材・化学メーカーならではの生成AI活用法
具体的なアプローチとして、研究者の化学技術の専門知識をベースに、AIとの対話を通じて新たな発想を得ています。AIは新たな材料特性や機能の可能性、さらには従来考えられていなかった産業分野での応用可能性を示唆することで、研究者の創造的思考を刺激しています。
例えば、自社のアニオン重合技術を基に、AIに新素材のアイデアを問い合わせたところ、AIが高性能エラストマーを提案し、用途として自動車・航空・建設業界を示唆しました。AIに求められる物性を質問し、耐熱性・耐油性・耐薬品性を特定した上で、人間の専門知識とAIの提案を組み合わせ、とある化合物の配合を考案しました。
素材・化学メーカーの研究者は、分子構造や物性に関する深い専門知識を持っています。この専門知識と生成AIの組み合わせにより、従来の発想の枠を超えた新たな素材開発の可能性が広がっていると考えています。特に、以下のような点で生成AIが研究開発を支援しています:
- 多様な視点の提供:研究者が見落としていた視点や、異分野の知見を取り入れた提案
- 迅速な仮説生成:特定の物性を持つ素材の分子構造の提案
- 文献調査の効率化:膨大な学術論文や特許情報からの関連情報の抽出と要約
- 実験計画の最適化:ベイズ最適化Webアプリを用いた効率的な実験設計(※これは生成AIではなく別途開発したツール)
このアプローチにおいて、AIはあくまでも思考補助として活用され、最終的な判断や方向性の決定は常に研究者が行っています。日本曹達は、このプロセスを通じて、既存技術の新たな応用可能性の発見、研究者の創造性の刺激、アイディエーション・プロセスの活性化などに繋げられると期待しています。
定量的な成果と「民主化」の効果

図5. 日本曹達における生成AI活用の定量的効果
日本曹達は研究開発部門を対象に生成AIの効果測定アンケートを実施し、「民主化」戦略の成果を数値で可視化しました。約150名の研究員から得られた結果では、生成AIを活用している回答者の報告から、少なくとも1000時間/月の時間削減が確認されました。これは各研究員が報告した月間の時間削減量を合計した値です。
また、生成AIを使用していない社員の業務内容を分析したところ、適切に活用することで全体の労働時間を最大で約30%削減できる可能性が明らかになりました。
さらに、生成AIの利用回数は、導入後1ヶ月目で16,000回、2ヶ月目で28,000回、3ヶ月目で26,000回と順調に推移しており、社内での定着が進んでいます。
これらの結果は、生成AIの導入が単なる一時的な効果ではなく、持続的かつ大規模な業務効率化につながる可能性を示唆しています。また、まだ活用していない社員の業務にも大きな効率化の余地があることが分かり、今後の全社的な展開によってさらなる生産性向上が期待できます。
「民主化」がもたらした予想外の効果
数値で測れる効果だけでなく、「民主化」戦略は組織文化にも大きな変化をもたらしました。以下のような文化が生まれています。
- 部門間の壁の低下:
「異なる部門の社員が、生成AIの活用法について自発的に情報交換するようになりました。従来は交流の少なかった研究開発部門と営業部門の社員が、生成AIという共通の話題で対話するケースも増えています」 - 年齢層を超えた知識共有:
「若手社員がベテラン社員に生成AIの使い方を教える一方で、ベテラン社員が業務知識や判断基準を若手に伝える。そんな双方向の学び合いが自然と生まれています」 - 提案文化の醸成:
「生成AIを使って自分のアイデアを整理し、上司や同僚に提案する社員が増えました。『思いついたけど、うまく説明できない』という壁が低くなり、多様なアイデアが出やすくなっています」
業務時間の削減によって生まれた時間を使って、アイデアを出し合う「フリーディスカッションデー」の開催も計画しています。効率化の目的は、単なる労働時間の削減ではなく、より創造的な活動のための時間を生み出すことです。
おわりに
私たちは生成AIの全社展開を単なるツールの導入ではなく、組織文化の変革を目的として意識的に進めてきました。その結果、研究開発部門から始まり、製造、バックオフィスへと広がる活用の輪が生まれ、組織全体のデジタル変革を加速させる原動力となっています。
重要なのは、トップダウンの方針とボトムアップの活動を適切に融合させ、「環境」と「道具」をバランスよく整備したことです。また、短期的な効率化だけでなく、中長期的な創造性向上や新たな価値創出を見据えた活用を目指していることが、持続的な成功につながっています。
「ノーバリア戦略」「モーニングビュー戦略」「二刀流アプローチ」といった具体的な施策は、他の企業でも応用可能な実践的な知見です。これらの施策により、わずか数ヶ月で全社員の約半数が生成AIを活用するようになり、当初の予想を上回る成果を上げています。
技術そのものよりも、その技術を組織に浸透させるための『仕組み』と『文化』が成功の鍵です。私たちの経験が、他社の参考になれば幸いです。